あの人は今?
       --浜松JCの功労者達--   「第4回 塩谷泉先輩編」

「私がブロ長の年は当たり年でした。(笑)」
 私はいい時代にJC活動をやらせてもらいました。今のような経済情勢で活動しているみんなは大変ですよね。95年に浜松JCに静岡ブロック協議会会長(以下ブロ長)が回ってくるときに私に白羽の矢が立って、94年理事長、95年ブロ長と、やらせてもらいました。最終年(96年)には当面回って来ないといわれていた日本JCの役員を監事としてやらせていただくことができました。
 95年というと、グローバルトレーニングスクール(GTS)が日本JC主管から東海地区協議会主管に変わるところに加えて阪神淡路大震災が起きたので、とても特殊な年でした。震災で当時の日本JC会頭の息子さんが亡くなったのもあり、日本中のJCが救済に乗り出しました。そんなときにでもなんとか仲間に支えられてやっていくことができました。静岡は東海地震の懸念から防災の意識が他地域に比べて高いので、早い段階から取り組むことが出来ました。その当時ブロックでやろうとしていたペーパーレスの情報伝達手段として、PCによるネット連絡を取り入れました。それは全国でも早い導入で、現地状況などを素早く伝達することに役立ちました。そして各LOM(各青年会議所)の割当や当番などを決めて、震災地へと赴きました。決議などを後回しにてしまいましたが、ブロック協議会の当時のメンバーも緊急で行った会員会議所会議でもほとんどの各LOM理事長がやって来てその素早い対応を後押ししてくれました。
 すでに計画されていたGTSなどよりも、「こういうときこそ団結してボランティアするべきだ」という認識が全国的に認められたときにJCのすばらしさを感じました。そのときに一緒に活動した仲間は結びつきが強くて、いまでも当時のブロ長仲間とは月一回飲んでますよ(笑)

 

「これでも一時期は辞めたいと思う時期もありました。」
 ちょうど私は、後押しされてブロ長をやることができたけれど、辞めたいと思う時期もありましたよ。でもそれを乗り越えることができました。ブロ長になってやったことのひとつとしてブロック会員大会の記念事業に25LOM各1台ずつノートパソコンを買ったんですよ。震災のことが評価されることが多いんですけど、そういう先駆けをしたことも評価してほしいですね(笑)
 出向して学ぶことも多いですよ。最初に出会ったときはなんでもなくても後で会ったら立派になってたり。そういう人との出会いも楽しいし、いろいろな場所で知り合った人と時間を共有して仲間になって付き合いが続いていく。そういうつながっていく付き合いができますね。
 女性が入会し始めたのもちょうどその頃からですね。それまでは女性を入会させるのに反対的な人が多かった。でもこれからはそういう時代じゃない。ちょうど変化の時代でもあったんですね。とうかい号の団長を女性が務めたのもその頃でした。

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